活動報告へ   

青柳稲荷神社

 旧青柳村、旧石田村の鎮守です。青柳と石田は、明治22年(18 8 9)の谷保村との合村まではそ それぞれ村として独立していました。青柳村はもとは多摩川南岸の青柳島にありましたが、多摩川の洪水で 青柳島が流され、漢文11年(1671)この地に移転しました。

ママ下湧水

 「ママ下湧水」の「ママ」とは、この辺りの古語で、「小さな崖」のこと。だから「ママ下湧水」とは 「崖下の湧き水」のことです。この辺りは、太古の時代に多摩川の流れが形作った河岸段丘のひとつ、 「青柳崖線が通っています。

くにたち郷土文化館

 当館は1994(平成6)年に開館しました。国立の歴史•文化について古代から現在までの資料を 展示しています。環境への配慮から施設の8割が地下にあります。

谷保の城山

 城山とは都史跡三田氏館跡の通称である。別に三田城、谷保城とも呼ばれているが、三田氏所蔵の古図 によれば、万治版(万治11年、1659)に「津田三郎為守城山」と、また天保版(天保11年、1840年)に「津田 三郎為守ノ城跡故二名テ城山卜云ヒ来ル」と記されている。津田三郎為守は菅原道真の子孫と伝えられ、 石橋山合戦(1180年)以来、源頼朝に属して多くの武功をあげ、仁和4年(1243年)没した。 天保版は三田氏の祖先、三田林内の筆になるものであることから、城山は津田氏の館跡であり、鎌倉初期のものと考えられる。

谷保天満宮

 関東三大天神の一つで1100年の歴史を刻む東日本最古の天満宮。大宰府に左遷された右大臣菅原道真が、 延喜3年(903)配流の地で没したと報に、谷保・栗原郷に流されていた三男•道武が亡父の木像を刻み、天神島に 祀ったのが谷保天満宮の起源です。道武の裔孫•津戸為守(鎌倉幕府御家人)が霊夢により、養和元年(1181) 現在地に遷しました。立川崖線と青柳崖線の終末が交わるハケの地に立地し、甲州街道の鳥居から石段を下ると 拝殿が立つという珍しい配置は、街道がのちにハケ上に移ったことによるものです。 宝物殿所蔵の木造扁額「天満宮」と木造剥?子狛犬(2躯)は国の重要文化財。社叢は都指定の天然記念物です。

     【:一部運用:ウキペディア(フリー百科事典)・他】

 活動報告へ