高倉塚古墳は、府中崖線(ハケ)の斜面上に広がるこの周辺には、これまで確認されている 古墳が2 5基あり、これらは高倉塚古墳群と呼ばれています。このうち墳丘が残っているもの は4基あり、この高倉塚古墳は古墳群の中心に位置しています。古来より「高倉塚」と呼ばれ 象徴的な存在だったことから中世以降には信仰の対象として保存されてきました。これまでの 発掘調査で、墳丘構築工法が判明し、墳丘下層から6世紀前半とされる土師器坪が出土するな どの学術成果があり、高倉古墳群を研究するうえで貴重な資料となっています。
ご祭神は、木花開耶姫命(このはなのさくやびめのみこと)と宇迦之御魂命(うかのみたま のみこと)です。木花開耶姫命は日本神話の女神で、山の神である大山津見神(おおやまつみ のかみ)の娘です。富士山を神体山とする富士山本宮浅間大社のご祭神です。宇迦之御魂命も 日本神話の女神で、食物や穀物、五穀豊穰の神様です。倉稲魂命とも表記され、稲荷神とも同 ーです。創建の年代や経緯は不明です。かつてこの地域は、大國魂神社の神官が居住するお屋 敷があったことから、屋敷分(やしきぶん)という地名になったと考えられていて、江戸時代には浅間神社が 屋敷分村の鎮守社でした。元は、現在の多摩総合医療センター(旧府中病院)の敷地内に鎮座して いましたが、明治に村内にあった稲荷社を合祀し、現在の地に遷座しています。
甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並みが出来た のは17世紀半ば、慶安から寛文の頃であった。しかし大地は水に乏しく人々は度重なる火災 に苦しんだという。ついに本宿村では「講」を作り遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、 寛政4年、1792、この地に常夜燈を設けた。村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し 毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点して無事を祈り隣へと引きついだ。爾来一世紀半に亘り 村大の祈りは続けられたが大平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。
この古墳は、上円下方墳という特殊な方の古墳で、熊野神社境内に築造当時の姿に近い形で 復元・整備されています。熊野神社に隣接して、この古墳のガイダンス施設である展示館があ ります。館内には、古墳の解説と鞘尻金具のレプリカや古墳の石材などが展示されています。 併設されている石室復元展示室では、原寸大で復元した石室模型の中に入って見学する事が出 来ます。
【一部引用:府中観光ガイド・各種パンフレット•他】