1913年(大正2年)から1915年(大正4年)にかけて、江口定条の別荘として庭師「仙石」の作 による庭で、1929年(昭和4年)に 三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別荘として買い取り、津田薫の設計で洋風邸宅、数寄屋風の茶室(紅葉亭)などを追加整備した。 昭和40年代に再開発計画が持ち上がったが、保存を求める住民運動をきっかけとして1974年(昭和49年)東京都が買収、公園として整備の後に 1979年(昭和54年)4月より有料庭園として公開した。
鎌倉時代、恋ケ窪は宿場町として栄え、遊女たちが池で、朝な夕なに自らの姿を映していたことから「姿見の池」と呼ばれる様になった と言い伝えられています。昭和に入り一度埋め立てられたが、現在は隣接する東京都緑地保全地域と一体的に整備され、かつての武蔵野の 里山風景を見ることができます。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)に登場したほか、野鳥の観察スポットでも人気の名所で、都名湧水57選。
現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたもので、鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道 と呼称されていました。鎌倉以前の幹線道路である東山道武蔵路と道筋の重なる「上の道」が、現在の鎌倉街道にあたります。 鎌倉から町田、府中を経て、上野(群馬県)信濃(長野県)方面に伸びています。
国分寺は、741年に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺と国分尼寺に 分かれる。寺域は、国分寺跡、国分尼寺跡を合わせて、僧寺金堂を中心に東西1500m、南北1000mの範囲に及ぶとみられる。 国分寺崖線の南側すぐの位置にあり、かつては東山道武蔵路を挟む形で東側には武蔵国分僧寺、西側には武蔵国分尼寺が立地していた。 現在は、両寺院の間を府中街道とJR武蔵野線が横切っている。
都指定名勝、都名湧水57選で、国分寺市内には潤沢な湧水地帯が形成されており、特に真姿の池近くの湧水は水量豊か。 湧水の一部は池に流れ込み、残りは水路を100mほど流れ、野川の支流の小さな清流に注ぐ、清流沿いの約400mの小径がお鷹の道。 江戸時代に、周辺が尾張徳川家の鷹場であったことから名づけられました。
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